Dîner Ennuyeux

aesthetics, philosophy of art, criticism

【アイドルマスターシャイニーカラーズ】コメティックとカント

今日はアイドルマスターシャイニーカラーズというゲームに登場するアイドルユニット、コメティックについて書こうと思います。

 

shinycolors.idolmaster.jp

 

コメティックの楽曲にはカント的な響きがあります。

 

最も顕著なのは「無自覚アプリオリ」というタイトルでしょう。

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私はカントの原典を(その翻訳すら)読み通したことがないのですが、カント研究者からのツッコミを恐れずに、カントの思想を大胆に要約したいと思います。

この辺りの事情をきちんと知りたい人は、木田元(2000)『反哲学史』を読むことをお勧めします。平易に書かれていて抜群に読みやすいです。

 

では本題です。

カントは、人間は世界を認識する際、世界のありのままを認識しているのではなく、一定の色眼鏡を通して認識しているのだ、と主張しました。

そのような色眼鏡は「カテゴリー」と呼ばれます。

カテゴリーの代表例は「時間」や「空間」です。カントによれば、「時間」や「空間」というのは、人間が世界を認識するために、いわば人間が世界に「押し付ける」枠組みであって、世界そのものが持つ性質ではない、ということになります。

かなり反直感的で分かりにくいでしょう。

カントがこのような主張をしたのには、もちろんそれなりの背景があるのですが、その背景でキーコンセプトになるのが「アプリオリ」という概念なのです。

この背景の話を書き続けるのはしんどいので、気になる人は『反哲学史』を読んでください。要するに、「アプリオリ」という言葉はカントとの哲学と強く結びつくもので、こういう言葉を聞くと哲学オタクはうきうきしてカントの話を始めてしまうというわけです。

コメティックの話を始める前に、もう少しカントの話を身近なものにしておきましょう。

私たちが何かを認識するとき、私たちはそのありのままを認識するのではなく、既存のカテゴリーを頼りにその対象を認識しがちである、というのがカント的洞察(カント本人の論とはやや離れているのでカント「的」としておきます)です。

この説の妥当性はきちんとした経験的(科学的)な手法で確かめられる必要があると思いますが、例えば誰かを認識するとき、私たちはその人をありのまま捉えるよりも、年齢・性別・国籍・人種・出身地などの「既成」のカテゴリーを通して捉えがちではないでしょうか。

 

ここまでの話を踏まえて以下で見ていきたいのは、コメティックの「平行線の美学」です。

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2番の歌詞に、次のようなフレーズがあります。

一般のキャパシティ

多種多様なカテゴリ

君が「そう」なら「そう」だ

「君が知りたい」

言われてもね、きっとね

キャパオーバーだね

嫌いな訳じゃなくて虚しいんだ

あぁ やなかんじだ

以上のような話を踏まえながらこの歌詞に注意を向けると、違った仕方で聞こえるのではないでしょうか。

カテゴリー抜きで「君」を知ることは、カント的な世界観の下では人間の能力の限界を超えている「キャパオーバー」なわけですから、「嫌いな訳じゃなくて虚しい」と感じられるのでしょう。

 

そしてこの曲のポイントは、他者のありのままを捉えられないことにもどかしさを感じていながら、同時にある種の希望も見出されているところだと思います。

私は私でありたい

君は君でいればいい

それでいいね

並走して触れ合う テリトリーの中で

手を繋げたならいいね

互いのありのままに触れることができない2人の関係を「平行線」に見立て、そこにもどかしさと希望を同時に見出す、上手な歌詞だと思います(そして何より曲がかっこいい)。

この解釈が唯一の正解だと言っているわけではありません。ただ、こういう解釈もあり得るかもね、もしかしたらこの曲の大事な部分を掬えているかもしれないね、という話です。

 

以下、おまけです。

・ハナムケのハナタバの歌詞の、「ワタシが見ていた世界」「アナタが見たアナタの世界」というような言い方は、カントに連なるドイツ観念論の世界観を想起させる。

・コメティックが「~である」(例えば、私は人間である、女である、日本国籍である)という「本質存在」ではなく「~がある」「~がいる」(<ありのままの>私がいる、君がいる)という「事実存在」に注目し、そこに希望を見出するならば、それはシャニマスと頻繁に結びつけられる実存主義に他ならない(このあたりの話も、木田の反哲学史から借りています)。