情動理論におけるプリンツ(2004)とロビンソン(2005)の共通点と相違点
ロビンソンとプリンツ
ジェニファー・ロビンソンのこの本を読んでいる(表紙がかっこいい)。
Robinson, J. (2005). Deeper than reason: Emotion and its role in literature, music, and art. Oxford University Press.
四つの部からなる本で、第一部では情動理論を扱っている。
(第二部は文学と情動、第三部では芸術における情動表現、第四部では音楽と情動を扱っている)
美学の本だと思っていたが、結構分量を割いて自身の情動理論を提案・擁護していて驚いた。
ところで、情動理論といえば話題から外せないのはプリンツのこの本。邦訳も出ている。
Prinz, J. J. (2004). Gut reactions: A perceptual theory of emotion. oxford university Press.
〔プリンツ, J. (2016). はらわたが煮えくりかえる: 情動の身体知覚説(源河亨訳). 勁草書房.〕
プリンツの本は、情動理論における一つのスタンダードを築き上げたと言っていいだろう。ところが、ロビンソンはプリンツの本について次のように述べている(第3章注56)。
Since I wrote these chapters, a book has appeared with a view that is not dissimilar to that defended here. Unfortunately it appeared too late for me to discuss it.
私がこれらの章を書いてから、ここで擁護している見解とそれほど異ならない見解の本が出版された。残念なことに、その本が出版されたのが最近すぎたため、私はその本について論じることができなかった。
ロビンソンの本は、しっかりとした情動理論を土台にして美学的な事柄を議論する貴重な仕事であるだけに、それと現在のスタンダード(の一つ)であるプリンツの立場の関係が、曖昧になってしまっているのは(仕方ないことだけれども)残念なことだ。
言い換えれば、私の懸念は、ロビンソンの美学的議論は、その土台をロビンソン自身の情動理論だけでなく、プリンツの理論(身体性評価説)にも見出すことができるのだろうか、というものだ。
(ちなみに、この書き方が既に示唆してしまっているように、私は情動理論としてはプリンツの理論の方が説得力があると思っている。)
そこで、本エントリーではロビンソンとプリンツの情動理論が持つ共通点と相違点を簡単に整理しておきたいと思う。どちらの本も、メインのアイデアは第三章で説明しているので、詳しく検討したい人は本文を参照してほしい。
最大の共通点と相違点
二人の理論の最大の共通点は、①どちらも情動の認知説に反対していることだ。
情動の認知説というのは、大雑把に言えば、例えば、「恐怖する」とは「これは危険である」というような判断を認知的に下すことである(あるいは、そのような認知的判断によってのみ引き起こされる状態である)、というような説明をする立場である。この立場は、認知説という名の通り、認知的判断を情動にとって本質的な要素とみなす。
(私は現状を知らないが、)これらの本が出版された当時は認知説はとても人気だったようで、そのことはロビンソンのこのインタビューからもうかがえる。
二人の理論は、どちらもこの認知説に明示的に反対していて、認知的判断は情動に必要不可欠なものではない、とはっきりと主張している。
(そして二人とも、②認知的判断がときに情動を引き起こすことを認めている。これも重要な共通点である。)
二人は、認知説とは距離を取りつつも、③情動にはある種の評価が本質的に含まれるとする点でも共通している。二人によれば、「恐怖」という情動には「これは危険である」という認知的判断は必ずしも含まれないが、<危険>という状態を何らかの仕方で評価することは常に含まれている。
一方で、二人の最大の相違点は、④情動における身体状態の変化と評価の関係をどう考えるか、という点にある。プリンツによれば、情動が<危険>を追跡するのは、身体状態の変化を通してである。一方、ロビンソンによれば、非認知的な評価作用(ロビンソンはこれをaffective appraisalと呼ぶ)が、<Threat!>という性質を感知し、それが身体状態の変化に繋がるのだという。
(私がプリンツの立場に惹かれているのは、この非認知的な評価作用に訴えるロビンソンの説明がプリンツのものよりも冗長に見えるからである)
まとめるなら、二人の説は情動は身体状態の変化と、主体の福利状態(危険など)の評価を必ず含み、かつこの評価は非認知的であるという点で共通しているが、どのような仕方で評価を行うかにおいて異なっている。プリンツの方は身体性評価説という名の通り、身体状態の評価によって福利状態を追跡するとする一方、ロビンソンにおいてはそうではなく、身体反応はむしろ評価の結果とされている。
その他の点
その他の重要な共通点として、⑤情動における記憶の役割を二人とも強調していることがある。私たちは、学習を通して様々な対象(状況)に多様な感情を抱くようになるが、それが可能であるのは特定の記憶領域のおかげである、というのは二人に共通した説明である。ロビンソンが感情的記憶(affective memory)という言葉を用いて情動の学習の話をする箇所は、プリンツの較正ファイルの議論とほとんど同じように見えた。
また、今度は相違点として、⑥情動反応(身体状態の変化)の後に生じる認知プロセスの役割をロビンソンはプリンツより重視しているように見える。ロビンソンはどこまでをproperな「情動反応」として認めるかについてプリンツほど明示的に議論しているわけではないが、おそらく身体状態の変化が起こり、その変化を起こした対象について熟考する(e.g. 「これは本当に危険なのか?」→「危険だ!」/「危険じゃない!」)プロセスも含めて、「情動反応」を考えているように見える。
その他の相違点として、⑦基礎的情動(basic emotion)の位置づけや⑧気分(mood)の位置づけも挙げられると思う。このあたりの問題(特に基礎的情動の方)はややこしいので詳しく検討しようとすると大変だが、基礎的情動についても気分についても、プリンツはロビンソンより慎重な説明をしようとしている感じがある。反対から言えば、ロビンソンはプリンツよりもこれらの二つをラフにとらえている感じがある。
私が気づいた共通点、相違点は以上の8つである。もしこういう作業は既になされているよ、とか、こういう相違点もあんじゃない、みたいなものがあれば、教えてください。喜びます。
(二人が、ほとんど同時に似たようなアイデアを本にまとめたのは、ジェームズとランゲの関係みたいで趣深い。とはいえ、ロビンソンとプリンツの間に交流が全くなかったわけではないようである。ロビンソンの謝辞ではプリンツの名前が挙がっていた。)
達成に関するvon Kriegsteinの3つの論文
Hasko von Kriegsteinによる、達成に関する三つの論文を読んだ。
Kriegsteinは、トロント州立大学[Toronto Metropolitan University]に勤める倫理学者。専門は規範倫理学と企業倫理で、2014年に達成[achievement]概念についての博士論文を書き、トロント大学[University of Toronto]で博士号を取得した。
本エントリーでは、達成に関するKriegsteinの3つの論文の概要(中心的なアイデア)をまとめ、簡単なコメントをつける。
前提として、以下の3つの論文はどれもBradford(2015)による単著『達成』への批判的応答となっている。この本については前回のエントリーで概要をまとめた。Kriegsteinはこの本の書評も書いている。
Bradford(2015)の戦略は、達成を
(A)プロセスの難しさ[difficulty]と
(B)主体の能力[competence]によって引き起こされること[competent causation](もっぱらの運による成功は達成ではない)によって分析し、
さらに、
(a)難しさを努力[effort]の概念によって説明し、
(b)competent causationを知識[JTB]の概念によって説明することである。
タイトルを見れば分かるように、以下で扱う一つ目の論文は努力の概念を批判的に検討するものであり、二つ目の論文は難しさを、三つ目の論文はcompetent causationを扱うものである。
目次
- (2017). Effort and Achievement.
- (2019). On being difficult: Towards an account of the nature of difficulty.
- (2019). Succeeding competently: Towards an anti-luck condition for achievement.
- 全体のまとめとコメント
(2017). Effort and Achievement.
Utilitas, 29(1), 27–51.
概要
達成がどれほどの努力を要求するかと、その達成にどれほどの価値があるかは、(しばしば)比例するように思われる。では、ここで言われているところの「努力」[effort]とはどのような概念なのか。
まず、「努力をする」ということは、「(身体的・精神的な)資源[resource]を投じる」ことである、と考えられる(pp. 35-39、著者はこの見解について予想される反論にもこたえているが、本エントリーでは割愛)。
著者は努力という概念にまつわるいくつかの曖昧さを除いていくと、次の二つの努力概念に行きついた。
絶対的努力[abosolute-effort]:ある人が、どれくらいの努力を発揮したか(=どれくらいの身体的・精神的資源を投じたか)
割合的努力[percentage-effort]:ある人が、自分の努力の限界値を分母としたときにどれくらいの努力を発揮したか(=自分の投じうる身体的・精神的資源の限界値を分母としたときに、どれくらいの身体的・精神的資源を投じたか)
例えば、マイケル・フェルプスが50mを1分で泳ぐのと、一般的な小学3年生が同距離を同速度で泳ぐのでは、絶対的努力は同じになるが、割合的努力は異なることになる。というのも、50mを1分で泳ぐのに必要な資源は同じであるが、「水の怪物」ことフェルプスが持つ身体的(精神的)資源は小学三年生のそれに比べて莫大であるため、フェルプスの割合的努力は小さくなる。
小学3年生が50mを1分で泳ぐことは、フェルプスがそうすることよりも達成としての価値が高い(ように思われる)ことは、小学3年生が発揮する割合的努力が大きいことによって説明される(なお、フェルプスがその莫大な資源を手に入れたこと自体(50mを1分で泳ぐことが全く苦にならなくなるまでに成長したこと自体)が大きな達成である、というのはまた別の話である)。
絶対的努力も達成の価値に間接的に寄与する(場合もある)が(pp. 43-44)、達成の価値と典型的に比例するのは、割合的努力の方である。
以上が本論文の中心的なアイデア。本エントリーでは割愛するが、本論文の終盤で著者は二つのパズルに取り組む。
パズル1:割合的努力の規定における、「自分の投じうる身体的・精神的資源の限界値」はどのように計測されるか。
パズル2:達成のプロセスに含まれているものの、達成の価値に寄与しない「無駄な努力」はあるか。あるとしたらそれはどのように測られるのか。
コメント
Bradford(2015)は努力概念を原始的なものとして扱っている。Kriegsteinの議論はシンプルなものだが、努力を「資源の投入」[dedication of resource]として考えることで、努力概念を原始的なものとして扱うことを避けている。
このような仕方で努力概念にまつわる曖昧さを解消することは、努力概念が他の重要概念の分析(Kriegsteinが挙げるものとしては、「値する」[desert]、注意[attention]、能力[competence]、分配的正義[distributive justice])で用いられることを考えれば、重要な課題だろう。
著者は二つ目のパズルに対して、「成功の確率を上げなかったと本人が信じているならば、それは無駄な努力である」という回答を与える。この回答は一見すると循環しているように見えるが、よくよく考えてみるといい線をいっているようにも見え、おもしろい。
(2019). On being difficult: Towards an account of the nature of difficulty.
Philosophical Studies, 176(1), 45–64.
https://link.springer.com/article/10.1007/s11098-017-1005-3
概要
何かが「難しい」とはどういうことか。
Bradford(2015)は、あるプロセスが難しいのは、そのプロセスが要求する「懸命な努力」[intence effort]が一定の閾値を超える場合である(かつその場合に限る)、と分析している。
(intence effortというのはBradfordが規定するテクニカルタームで、ある値以上の懸命さ[intensity]を備えた努力のこと。Bradfordは「ほとんど苦にならないような努力をとても長い期間要求することは、難しさを構成しない」という前提に基づき、このような概念を導入した。ここでの文脈からすると些細な問題に答えるための概念であるため、単なるeffortであると捉えてもさしあたり問題はない)
とてもざっくり言えば、Bradford(2015)において「難しい=努力を要求する」という図式が成り立っている。
Kriegsteinはこの図式に反論する。いくつかの例が論文中で検討されるが、特に分かりやすいのは次の例だと思う(p. 55)。
哲学のジャーナルAは、採択率がとても低い[highly-selective]。一方、哲学のジャーナルBは、採択率がとても高い。このとき、ジャーナルAで論文を出版することは、より難しいといえる。では、ジャーナルBは採択率こそ高いものの、ジャーナルAよりハードな論文修正を依頼しがちであるため、結局、論文を出版することが要求する(懸命な)努力の量はどちらのジャーナルで出版する場合も同じであるとしよう。それでもなお、ジャーナルAで出版することはBで出版することよりも難しいといえるはずだ。だとしたら、難しさは要求される努力の量で常に決まるわけではない。
この例に納得できない場合は、その前に出てくる次の例を考えてみるとよいかもしれない(p.54)。
幼いピーターは末期の病にかかっていて、残された時間はそう多くない。両親は、ピーターの願い事を何でもかなえてあげると彼に約束した。ピーターは、父親と母親にそれぞれ別のお願い事をした。父親には、庭にある大きな木を切り倒してそれで大きな焚火をしてほしいとお願いした。父親はそれを実行する方法を知っていた[know how]が、それを実行するには非常に多くの努力が必要だった。母親には、今度彼女が参加する野球の試合でホームランを二本打ってほしいとお願いした。[母親はよいプレーをするために日ごろからベストを尽くしているため、]ホームランを打つことは彼女にいつも以上の努力を要求するものではなかったが、それでもホームランを打つことは難しい。残念ながら、結局二人はピーターの願いごとをかなえることはできず、約束を果たすことができなかった。
このとき、母親の道徳的責任は、ホームランの難しさによって(ある程度)相殺されると直観的に考えられる。一方、父親の場合はそうではないだろう。父親の約束は多くの努力を要求するかもしれないが、その努力が構成する難しさは父親の責任を減ずるようなものではないのだ。
これらの考察を踏まえると、「難しさ」には努力に還元できない種類のものがあるように思われる。ジャーナルAで論文を出すことの難しさや、ホームランを打つことの難しさは、まさにこのタイプのものであるだろう。
では、努力に還元できないタイプの難しさとは何なのか。Kriegsteinが本論文の後半で提供するのはそれを捉えるためのスケッチである。少なくともそれは、
①主体中立的[agent-neutral]であり、かつ
②成功確率の低さに大きくかかわる、
ものである。
コメント
他の二つの論文では割とはっきりとした回答を示しているのに対し、この論文の終わり方は比較的ルースである。とはいえ、努力に還元できないタイプの難しさがあるということは割とはっきり示されている。
これはほぼ余談だが、面白かったのは、
「宝くじに当たるような[努力を要求しない]ことを''難しい''と表現するとき、私たちが本当に意味するのは、それがありそうもない[unlikely]こと、あるいは蓋然性が低い[improbable]ということなのである」(強調は私)
というBradfordの記述に対して、
「重い買い物袋を持ち帰るような[成功の確率が高くない]ことを"難しい"と表現するとき、私たちが本当に意味するのは、それが努力を要求するということである」(強調は私)
と反論することも同じくらい可能だというところ(p. 58)。何が言葉の「本当の意味」かを決めることの根本的な難しさ(満足のいく結果が得られる確率が低いという意味で)を示している。
ところでBradfordも別のところで、
「ある人が持ち出す反例は別の人にとっては論点先取り」[one man's counterexample is another man's question-beg]と言っている(p. 89)。
この言葉におけるcounterexampleはintuitionとも読み替えられるだろう。
(2019). Succeeding competently: Towards an anti-luck condition for achievement.
Canadian Journal of Philosophy, 49(3), 394–418.
概要
単なる運によって引き起こされた成功は、達成ではない。
では、成功が達成となるためには、主体はどのようにして成功を引き起こさなければならないか。
Bradfordは、単なる運による成功を達成から除外するために、主体はその成功をcompetentlyに引き起こさなければならないと主張する。「competentlyに引き起こす」とは、大雑把に言えば「主体が自分がしていることについて一定以上の知識を備えている」ことであるという。
Kriegsteinは、自分がしていることについて多くの知識を備えていることと、主体がそれをcompetentlyに引き起こすことは別のことであると反論する。例えば、車を運転することはknow-howの問題であり、know-whatの問題ではない。車や運転の仕方について多くの知識を持っていることは、その人が車をcompetentに運転できることを意味しない。
(いちおうBradfordもknow-howとcompetencyの関係に触れているが(pp. 79-81)、それほど詳しく検討することはせず、自分の説に取り込む可能性を軽く示唆するにとどまっている)
本論文では、Bradford以外によるアプローチの検討も行われる。最終的にKriegsteinが出す回答は次のようなもの(p. 411)。
(1)現実世界だけでなく、関連する初期条件が現実の世界と同じような、大半の近接可能世界でも目的が成就する。その関連する初期条件には、(a)目的に到達するために明示的に行った行動、または(b)目的が成就する可能性が高くなることを[顕示的/潜在的に]認識しながら行った行動を含む。
かつ
(2)主体が自分の計画を良いもの(成功の可能性を高めるようなもの)であると正当化可能な仕方で[justifiably]みなし、かつ次の四条件を全て満たす出来事は存在しなかった。(a)その出来事は現実の世界で起こる。(b)主体はその出来事を予見していない。(c)主体がそれを予見していたならば、自分の計画を良いものであると正当化されなかった。(d)現実の世界でそれ以外の出来事が起こり、そのことを知ることで正当性が回復する。
かなり複雑だが、二つの節の核となるアイデアだけを抽出すると次のようになる(Ibid.)。
(i)とった行動は成功の可能性を高めるものでなければならない。
(ii)このこと(成功の可能性を高めること)が、主体がその行動をする理由になっている。
コメント
三つの論文の中で一番難しかった。あまり理解できている気がしない。
Kriegsteinは最終的に、達成(とりわけその価値)について語る際には、competencyは0-1ではなく、程度概念として捉えた方がいいと提案している(p. 413)。
全体のまとめとコメント
どの論文もBradford(2015)を批判・補完するものとして重要な仕事に取り組んでいる。それぞれを一文でまとめると、
①努力には絶対的努力と割合的努力の二種類があり、達成の価値とより密接にかかわるのは後者である。
②難しさには努力に還元できない種類のものがある。
③主体がある事態をcompetentlyに引き起こすとは、主体の行動がその事態が成立する可能性を高めるものであり、かつ主体がまさにこの理由に基づいて行動する、ということである。
これらの断片的なアイデアをまとめ、「達成」概念についての包括的・体系的な説明を提供することが、達成概念界隈にとっての次の課題となるだろう。
Bradford(2015)『達成』と4つの書評
書評は著者名とタイトルで検索して目についたものを選んだ。以下の4つ(書評が長い順)。
von Kriegstein, H. (2016): https://philpapers.org/rec/VONBGO
Arpaly, N. (2016): https://ndpr.nd.edu/reviews/achievement/
Hassan, P. (2015): https://www.academia.edu/18800631/Review_Achievement_by_Gwen_Bradford
Chokvasin, T. (2015): https://so05.tci-thaijo.org/index.php/sjss/article/view/34718
本の内容
タイトルの通り、「達成」[achievement]について論じている。
著者が序盤で述べるように、達成についての言及は多くの哲学的文献で見られるものの、達成それ自体についての哲学的考察はあまりなされてこなかった。
本書は達成そのものについて論じようとするものである。
前半では①達成を定義するという問題に取り組み(what makes achievement achievement?)、後半では②達成の価値についての問題に取り組んでいる(what makes achievement valuable?)。
二つの問いに対する著者の立場は、大まかに次のようにまとめられる。
①What makes achievement achievement?
著者によれば、ある活動[activity]が達成になるためには、次の3つの条件を満たす必要がある。
(1)ある主体が、あるプロセス[process]によって、一定の成果[product]を引き起した。
(2)そのプロセスは難しい[difficult]ものであった。
(3)その主体は、そのプロセスによってその成果をcompetentlyに引き起こした(例えば、もっぱら運によって成果がもたらされた場合などは、これを満たさない)。
著者は以上のような達成概念の概要を第一章でスケッチしたうえで、残り二つの要件(difficulty, competent causation)の内実と正当性を第二章と第三章でそれぞれ議論する。
著者は(2)の難しさについては努力[effort]という概念によって説明し、(3)のcompetent causationを主体が活動について知識を持っていること[knowing what she's doing]によって説明しようとする。
②What makes achievement valuable?
著者の立場は、「卓越主義に立脚した穏健な本質主義」とでもいうべきものである(これは本書に出てくる用語ではなく、私による命名)。
まず、「人間に特徴的な能力をよく働かせること」に価値の基礎に置く、卓越主義[perfectionism](のひとつのヴァージョン)に立脚するものである。
著者によれば、達成の本質をなす難しさ[difficulty]は意志[will]の能力を、competent causationは合理性[rationality]の能力を働かせる。著者の見立てでは、これらは人間に特徴的な能力であるため、これらをよく働かせることは内在的に価値を持つ[intrinsically valuable]。
著者は、達成の成果[product]がどんなものであろうと、ある活動が達成である限り、その活動に取り組むことは少なくとも以上の限りで価値を持つ、と主張する。達成の価値を構成するものの要素として、達成の本質[difficultyとcompetent causation]を挙げる点で、本質主義的であるといえる。
とはいえ、達成の成果が達成の価値に寄与することを、著者は認める。この点で、著者の立場は穏健なものであるといえる。
達成の価値を説明するものとして、著者は多様における統一[unity in diverse]も挙げる。これは、達成の価値は、単に「意志の発揮」が持つ価値と「合理性の発揮」が持つ価値を足したものではなく、それらを一緒にして働かせることにより、さらに増える、というものである(達成の価値は部分の総和ではないということを指して、達成の価値は有機的統一[organic unity]を成しているとも説明される)。
以上が、本書で著者が擁護する立場の概観である。
なお本書では、負の成果を持つ「邪悪な達成」[evil achievement]に関する考察などもなされる。
コメント
良かったところとして、達成という大きな題材を扱っている分、議論の射程が広いというところがある。ゲームの価値からドーピングの悪さ、哲学的達成の価値についての言及まであり、更なる議論への示唆を多く含む。
読みどころは、達成に関する様々な直観を、多くの思考実験によって引き出しながら、著者が自らの立場と直観をうまくすり合わせようとするところにあると思う。個人的には、特にdifficultyの分析を楽しく読んだ。
著者の書き方はとてもカジュアルで、これは好き嫌いが分かれるところだと思うが、私としては読みやすく感じた。ただ、悪かったところとして、これはArpalyも書評で指摘していることだが、本の編集がやや雑な感がある。例えば、図2.1はAとBが逆になってしまっていると思う(私が読んだのはkindle版なので、もしかしたら別の版では修正されているかもしれない)。
4つの書評の中で特に注目に値するのは、Kriegsteinによるものだろう。Kriegsteinの書評は4つの中で最も批判的だった。それもそのはずで、Kriegsteinは2014年(本書の出版の1年前)に、達成についての博士論文を書いているらしい。それ以降、Kriegsteinは、達成についての更なる論文を3つ出している。
https://haskovonkriegstein.com/writing/research/
「達成」は、美的価値論でももはや頻出のワードなので、これらの議論には引き続き注目したい。
*1:えらくシンプルな表題だが、おそらくT. Hurkaの本、Perfectionismを意識しているのかな。
Nanay(2013)『知覚と行動の間』【第1章】
Nanay, B. (2013). Between perception and action. を読み進めている。
2024年8月現在、公式でオープンアクセスになっているので、ぜひともダウンロードしておきたいところだ。
なぜこれを読むのか
美的経験はしばしば、有用さへの関心を欠いた経験として特徴づけられる(この特徴づけはもちろんカントに由来する)。
しかし、そのような美的経験とは対比される経験、すなわち有用さへの関心を持った経験がどのようなものであるかは、それほど明らかではない。
この本が明らかにするのは、まさにそのような経験の本性である。
つまり、美的経験と対比されるところの有関心的な経験がどのようなものであるかを知ることは、美的経験がどのようなものであるかを知るためにも重要だろう、という算段だ。
もちろん、私たちの心が日常生活においてどのような働きをしているのか知りたい、という単純な動機も十分ある。
第1章の概要
人間の心について考える方法には、大きく分けて2つのものがある。
1つは、言語能力やそれによる推論など、おそらく(大人の)人間に特有の、高度な心的機能から出発して、人間の心全体をとらえようとする方法である。
もう1つは、動物や幼い子供でも持つことができるような、より基本的な能力から出発して、(大人の)人間の心を動物や子供のそれと連続的なものとして捉える方法である。
Nanayは、後者の方法がより妥当なアプローチであると主張する。心を理解するにあたってはよりシンプルな心の機能についての考察から始めようという提案は、まあ妥当だろう。反対する人はあまりいないと思う。
この方法論的な前提を踏まえたうえで、本書は本題に入る。
知覚と行動を仲介するものは何か。
ヒュームに由来する伝統的な見解は、次のようなものだ。
<知覚 → 信念+欲求→行動>
Nanayによる例を挙げる。
①窓から外を見て(知覚)、雨が降っているという信念を形成する。
②私は、雨に濡れたくないという欲求を持っている。(雨に濡れないためには、傘を持って行けばよいという信念も持っている)
③傘を持って行く。
この図式において知覚と行動を仲介するものは、信念や欲求と言われる「命題的態度」であるとされている。しかし、このような命題的態度がどのようなものであるかについては、合意がない。命題的態度についての伝統的な見解は、命題的態度は統語論的・概念的に構造化されている(つまりざっくり言えば、言語のような構造を持っている)というものではあるが。
つまり、このアプローチが上手くいくかどうかは、それが依拠する「信念」や「欲求」という命題的態度の正体をうまく説明することができるかにかかっている。
ここで、本書の方法論的立場を思い出そう。このような命題的態度は、(これはもちろんそれらをどのように定式化するのかによるのだが、)どちらかというと高尚な、人間特有の能力であると考えたくなる。特に、信念や欲求を言語と類比的にとらえようとするならば、この傾向はより顕著になる。
そもそも行動[action]とは、大人の人間だけでなく、小さな子供や動物にとっても可能なものである。このことは、命題的態度によるアプローチの妥当性を疑う理由になる。(繰り返しになるが、もちろんこれは命題的態度の定式化にかかっている。逆に言えば、動物や小さな子供の心的メカニズムを説明できるような仕方で、命題的態度は定式化される必要がある、ということにもなる)
少なくとも本書の方法論的立場を共有する人にとって、人の心に関する以上の図式はあまり魅力的なものではない。
一方、以上のような図式に対抗する立場もすでにある。
enactivismと呼ばれる立場は、表象というアイデアを拒否する。
知覚と行動を仲介するものは何か、という問いに対してこの立場は、知覚と行動は(身体を通じて)ダイレクトに相互作用するのであり、それらを仲介するものはない、ということを言う。
最近では広く知られるようになった、アフォーダンス概念(Gibson)もこの立場のものである。
Nanayは、確かに伝統的な立場が提示する命題的態度(これは表象の1種である)には怪しいところがあるが、だからと言って表象というアイデアを一挙に拒否するというのは、産湯とともに赤子を流すようなものだ[pouring out the baby with the bathwater]、と指摘する。表象概念の一部が問題含みであるからといって、表象というアイデア自体を拒否するのは行き過ぎである。
Nanayは両立場の中間を行く。
Nanayが提案するのは次のような図式である。
<知覚→実践的表象[pragamtic representation]→行動>
そもそも表象とは、ある対象にある性質を帰属させる[attribute]ものである。例えば私の知覚表象は、私の目の前のコップに特定の形を帰属させることができる。
Nanayは実践的表象を次のように定式化する。
実践的表象は、対象に行動性質[action-properties]を帰属させる表象である。行動性質とは、その行動をつつがなく実行するために表象されている必要がある性質がある。
Nanayが挙げる具体例が分かりやすい。目の前にあるコップを持ち上げるためには、少なくともそのコップの位置、サイズ、重さが、何らかの仕方で表象されていなければならない。
これらが行動性質であり、これら行動性質を帰属させる表象が、実践的表象である。
実践的表象は、Gibsonのアフォーダンス概念とは異なる。ギブソンのようなenactivistは、そもそも表象というアイデアを拒否するのだ。実践的表象に訴える議論は、enactivistの主張ほど改定的[revisionary]ではない。
以上が、第1章の概要である。
第2章では実践的表象のアイデアがより詳しく説明され、第3章では、そのアイデアが知覚に関してもたらす示唆、第4章では行動に関してもたらす示唆が示される。
そして、第5章では実践的な準知覚的表象とでもいうべき表象、pragmatic mental imageryについて語られる。
第5章までで扱われる表象は、世界が自分に対してどうなっているか、ということに関わる表象であるが、第6章で扱われるのは、世界が他人に対してどうなっているか、ということに関わる表象(vicarious representation)である。
コメント
素朴な疑問から出発して、既存の立場の概要と問題点を示しつつ、しかしその詳細には立ち入らず(これは良し悪しある)、自らの立場の優位性を強調していくという議論の展開は、いかにもNanayらしい。
enactivistたちの主張が本文のまとめだけではあまりしっくりこなかったので、別途調べたい。
美的経験の道徳的価値?―アイリス・マードックの道徳哲学と美学
アイリス・マードック(1919-1999)という哲学者がいる。
20世紀後半にイギリスで活躍した道徳哲学者であり、当時の英米圏で支配的だった道徳哲学と真っ向から対決したらしい。
SEPによれば、当時の英米圏で支配的だった道徳哲学は、次の7つの前提を持っていた。
- 事実と価値の分離:事実は決して価値を伴わない。
- 道徳的主体は、事実によって構成された全く同じ世界を共有している。
- 価値は世界の一部ではないので、主体によって発見されることはない。むしろ、主体によって世界に投影される。
- 倫理学の主題は、人々がどのような行為をすべきか、すべき行為を決定する原則や手続きは何か、というものである。ここには徳に関する問題や人間世界をどのように描写すべきか、という問題は含まれない。
- 個人における意識の流れは重要ではない。それらは行為を通してしか観察できない。内省は選択、決定、行為に関わる限りで重要性を持つ。
- 形而上学は倫理学に関与しない。形而上学は知的に一貫した活動ではない。
- 道徳哲学者はモラリストとは違う。道徳哲学者はモラリストの言明を中立に分析すべきである。
驚くべきことに、彼女はこれらすべてを拒否している。例えば、On 'God' and 'Good'(OGG)の1節では、7つ目の前提が正面から否定されている(拙訳を付す)。
In the moral life the enemy is the fat and relentless ego. Moral philosophy is properly, and in the past has sometimes been, the discussion of this ego and of the techniques (if any) for its defeat. In this respect moral philosophy has shared some aims with religion. To say this is of course also deny that moral philosophy should aim at being neutral(OGG, p. 51).
道徳的生活における敵は、肥え太った容赦ない自我である。本来の道徳哲学は、過去の道徳哲学がしばしばそうであったように、このような自我とそれを打ち負かす方法(もしそのような方法があるとすればだが)について議論するものである。この点において、道徳哲学は宗教と同じ目的を共有してきた。このように言うことはもちろん、道徳哲学は中立であることを目指すべきだという前提を拒否することでもある。
そんなマードックだが、彼女の最も有名なエッセイ集『善の至高性[The Sovereignty of Good]』において、道徳的な事柄と美学的な事柄の関連性がたびたび指摘されている。
例えば、同じくOGGに次の一節がある。
The chief enemy of excellence in morality (and also in art) is personal fantasy: the tissue of self-aggrandizing and consoling wishes and dreams which prevents one from seeing what is there outside one. Rilke said of Cézanne that he did not paint 'I like it', he painted 'There it is.' This is not easy, and requires, in art or morals, a discipline. One might say here that art is an excellent analogy of morals, or indeed that it is in this respect a case of morals. We cease to be in order to attend to the existance of somothing else, a natural object, a person in need. We can see in mediocre art, where perhaps it is even more clearly seen than in mediocre conduct, the intrusion of fantasy, the assertion of self, the dimming of any reflection of real world(Ibid., pp. 57-58).
道徳における(そして芸術における)卓越性の最大の敵は、個人的な空想である。自己拡大と願望や夢の慰めの組織が、自分の外側にあるものを見ることを妨げるのだ。リルケはセザンヌについて、「彼は『私はこれが好きだ』ではなく、『そこにあるもの』を描いた」と語っている。これは容易なことではなく、芸術においても道徳においても、規律を必要とするものである。芸術は道徳の優れたアナロジーであると人は言うかもしれない。あるいはむしろ、芸術は道徳の一事例なのだと言うかもしれない。私たちは、何か他のもの、つまり自然物や困っている人の存在に注意を向けるために、存在することを止める。凡庸な芸術には、空想の侵入、自己の主張、現実世界に対する省察の鈍化が、おそらく凡庸な行為以上にはっきりと見て取れる。
次の一節も興味深い。
It is important too that great art teaches us how real things can be looked at and loved without being seized and used, without being appropriated into the greedy organism of the self. This exercise of detachment is difficult and valuable whether the thing contemplated is a human being or the root of a tree or the vibration of a colour or a sound. Unsentimental contemplation of nature exhibits the same quality of detachment: selfish concerns vanish, nothing exists except the things which are seen. Beauty is that which attracts this particular sort of unselfish attention. It is obvious here what is the role, for the artist or spectator, of exactness and good vision: unsentimental, detached, unselfish, objective attention. It is also clear that in moral situations a similar exactness is called for(Ibid., p. 64).
偉大な芸術が、現実の事物を、利用することなく、そして貪欲な自己の有機的組織体に取り込むこともなく、眺め、愛する方法を教えてくれることも重要である。この超然[detachment]の作用は、観想の対象が人間であれ、木の根であれ、色や音の振動であれ、難しくも価値あるものである。感傷的でない自然観賞は、同じ質の超然を示す。利己的な関心は消え去り、目に映るもの以外には何も存在しない。美とは、この特別な無私の注意を惹きつけるものである。正確さと善き視覚[exactness and good vision]、すなわち感傷的でなく、超然的で、利己的でない、客観的な注意が芸術家や観客にとってどのような役割を果たすかは明らかである。また、道徳的な状況において、同様の正確さが求められることも明らかである。
同様の発想は次の一節にも見られる。
If, still led by the clue of art, we ask further questions about the faculty which is supposed to relate us to what is real and thus bring us to what is good, the idea of compassion or love will be naturally suggested. It is not simply that suppression of self is required before accurate vision can be obtained. The great artist sees his objects (and this is true whether they are sad, absurd, repulsive or even evil) in a light of justice and mercy. The direction of attention is, contrary to nature, outward, away from self which reduces all to a false unity, towards the great surprising variety of the world, and the ability so to direct attention is love(Ibid., pp. 64-65).
芸術という手がかりに導かれながら、私たちを現実のものと関係づけ、善なるものへと導いてくれるはずの能力についてさらに問うなら、慈愛や愛という考え方がおのずと浮かび上がってくるだろう。正確な視覚[accurate vision]を得るためには、単に自己を抑制することが必要なのではない。偉大な芸術家は、自分の対象を(それが悲しいものであろうと、不条理なものであろうと、嫌悪感を抱かせるものであろうと、あるいは悪であろうと)正義と慈悲の光で見る。注意の方向は、注意の自然的本性に反して、外に向かって、すべてを偽りの統一に還元しようとする自己から離れ、世界の驚くべき偉大な多様性に向かうものであり、注意をそのように向ける能力は愛である。
言うまでもなく、美への関与を自己中心的な関心の欠如によって特徴づけるのはカントの発想であり、また真-善-美の密接な関係を強調するのはプラトンの発想である。
私が注目したいのは、マードックが「注意[attention]」の重要性を強調している点である。
上掲した7つの前提から分かるように、従来の道徳哲学で問題とされてきたのはもっぱら行為に関わることであって、行為以前にあるもの、すなわち状況に対する認識や、そこにおいて発揮されている注意のあり方は問題とされてこなかった。マードックが問題視するのはまさにこの点である。
マードックによれば、主体には世界を自分に都合の良い仕方で把握しようとするシステムが備わってしまっている。そのようなシステムに対抗する方法は、愛によって触発・構成された注意を現実に向けること[attention to reality inspired by, consisting of, love]である(Ibid. p. 63)。
ところで、美学における「注意」の重要性を現在進行形で強調している美学者に、ベンス・ナナイがいる。
What makes aesthetic experience special is that our perception is open-ended and unconstrained. There aren't any no-go areas. And this is special because normally our perception is very much constrained by our everyday needs and is in the service of performing various actions. Most of the time, our perception is the opposite of open-ended. But aesthetic experience is different. It sets our perception free. And this freedom, the freedom of perception is among the most human of human capacities(Perception: the basics, p. 130).
美的経験を特別なものにしているのは、私たちの知覚が開放的で制約がないことだ。美的経験においては禁止区域がない。通常、私たちの知覚は日常的な必要性に大きく制約され、さまざまな行動に仕えている。ほとんどの場合、私たちの知覚は開放的とは正反対である。しかし、美的経験は違う。私たちの知覚を自由なものにしてくれる。そしてこの自由、知覚の自由は、人間の能力の中で最も人間的なもののひとつである。
ここでは注意[attention]の代わりに知覚[perception]という語が用いられているが、ナナイによれば、知覚を自由なものにするために必要なのは、対象が持つ様々な性質に注意を分散させることである(Ibid., p. 117)。
日常生活においていかに私たちの知覚が制約されているかを、ナナイは強調する。彼の診断によれば、通常、私たちの知覚や注意は生存に向けられている。すなわち、特定の環境を生き延びるような行動を導くために、私たちの知覚や注意は特定の仕方で対象を把握するように命じられている。
ここには、マードックが指摘するほどの邪悪な自己はないが、それでも対象を自らのために利用しようとする、ある意味で自己中心的な自己の姿があるだろう。
マードックが注意概念を借りるのはシモーヌ・ヴェイユからであり、ナナイが依拠するのは経験科学であるが、両者の議論には重要な共通点があるように思われる。
真・善・美を結びつけるマードックの議論が妥当であるならば、知覚の自由を発揮する美的経験は、認識的価値だけでなく(近年、こちらは美的認知主義によって擁護されている)、ある種の道徳的価値も持つことになるだろう。
道徳哲学と美学が「注意」という人間の基本的な認知能力によってどのように接続されうるか。これは、考えるに値する問題だと思う。
Bence Nanay(2018)「美的判断中心主義に反対」
Nanay(2018), Against Aesthetic Judgements を読んだ。
同じような話が、同著者によるAesthetics: A Very Short Introductionの方にも収録されている。
タイトルを直訳すると「美的判断に反対」になるが、そこで批判されているのは、西洋の美学(とりわけ分析美学)において美的判断が特権的な位置を占めてきたことなので、本エントリーのタイトルにある通り、「美的判断中心主義に反対」と勝手に訳した。
前半では、むしろ対象の前で展開するかけがえのない美的「経験」の方を重視すべきであり、経験の後に下されたり留保されたりする判断を気にかけすぎるべきではないと主張される。
後半では、そもそもなぜ(西洋)美学において美的判断が特権的な位置を占めることになったのかについて、いくつかの(美学史的な)診断が下される。
以下は私の感想。
美的判断が特権的な位置を占めがちなのは(西洋)美学においてのみでなく、私たちの生活実践、特にSNSにおける文字媒体ベースのコミュニケーションにおいてもそうだろうと思った。だとしたら、判断ではなく経験を重視せよというNanayの提案は、私たちの生活実践におけるコミュニケーションのあり方にも一定の変更を求めるものである。
【読書メモ】源河亨(2017)『知覚と判断の境界線―「知覚の哲学」基本と応用』
源河亨(2017)『知覚と判断の境界線―「知覚の哲学」基本と応用』を読んだ。
私がとりわけ興味深く読んだのは第6章「美的性質の知覚」。
そこにおいて、美的性質に対する知覚は、ゲシュタルトに対する知覚と同様にとらえることができると説明されるが、私はこれを裏付けるような(あるいは、これに裏付けられるような)経験をしたことがあるので、ここではその経験について書いておく。
動物のシカはかわいい。

私はある経験をするまで、シカにかわいさ(美的性質)を知覚していたが、その経験をしてから一定期間は、シカに全くかわいさを感じられず、それどころか気持ち悪さすら感じるようになった(いまは以前同様に、シカにかわいさを感じる)。
その経験とは、YouTubeでキョン(千葉に大量発生しているらしい動物)の動画を観たことだ。それがどの動画だったのかは覚えていないが、YouTubeで探せば似たような動画を見ることができるはず。
その動画は、キョンの臭腺(目と目の間に2つある穴で、そこから出す臭いのする分泌物でマーキングをするらしい)が開いたり閉じたりする様子を撮影したものだった。
私はその動画を見て、キョンにかなりの気持ち悪さを感じたが、そのあと、上で掲載したシカの写真(当時、私はこれをPCのデスクトップに設定していた)を見たときに、似た気持ち悪さを感じたのだ。
この経験は、キョンの動画を見た経験が、私が無自覚に採用する知覚モードに影響し、キョンの気持ち悪さを知覚するようなモードでシカの写真を見てしまった結果である、というふうに説明できると思う。
今は知覚モードがもとに戻ったのか、シカのかわいさを感じることができるし、むしろキョンもシカ的な「かわいいゲシュタルト」の下で知覚しているせいか、そこまで気持ち悪さを感じない。
以上、この本の説明を裏書きするような私の個人的体験談。
