Dîner Ennuyeux

aesthetics, philosophy of art, criticism

【アイドルマスターシャイニーカラーズ】コメティックとカント

今日はアイドルマスターシャイニーカラーズというゲームに登場するアイドルユニット、コメティックについて書こうと思います。

 

shinycolors.idolmaster.jp

 

コメティックの楽曲にはカント的な響きがあります。

 

最も顕著なのは「無自覚アプリオリ」というタイトルでしょう。

www.youtube.com

私はカントの原典を(その翻訳すら)読み通したことがないのですが、カント研究者からのツッコミを恐れずに、カントの思想を大胆に要約したいと思います。

この辺りの事情をきちんと知りたい人は、木田元(2000)『反哲学史』を読むことをお勧めします。平易に書かれていて抜群に読みやすいです。

 

では本題です。

カントは、人間は世界を認識する際、世界のありのままを認識しているのではなく、一定の色眼鏡を通して認識しているのだ、と主張しました。

そのような色眼鏡は「カテゴリー」と呼ばれます。

カテゴリーの代表例は「時間」や「空間」です。カントによれば、「時間」や「空間」というのは、人間が世界を認識するために、いわば人間が世界に「押し付ける」枠組みであって、世界そのものが持つ性質ではない、ということになります。

かなり反直感的で分かりにくいでしょう。

カントがこのような主張をしたのには、もちろんそれなりの背景があるのですが、その背景でキーコンセプトになるのが「アプリオリ」という概念なのです。

この背景の話を書き続けるのはしんどいので、気になる人は『反哲学史』を読んでください。要するに、「アプリオリ」という言葉はカントとの哲学と強く結びつくもので、こういう言葉を聞くと哲学オタクはうきうきしてカントの話を始めてしまうというわけです。

コメティックの話を始める前に、もう少しカントの話を身近なものにしておきましょう。

私たちが何かを認識するとき、私たちはそのありのままを認識するのではなく、既存のカテゴリーを頼りにその対象を認識しがちである、というのがカント的洞察(カント本人の論とはやや離れているのでカント「的」としておきます)です。

この説の妥当性はきちんとした経験的(科学的)な手法で確かめられる必要があると思いますが、例えば誰かを認識するとき、私たちはその人をありのまま捉えるよりも、年齢・性別・国籍・人種・出身地などの「既成」のカテゴリーを通して捉えがちではないでしょうか。

 

ここまでの話を踏まえて以下で見ていきたいのは、コメティックの「平行線の美学」です。

www.youtube.com

2番の歌詞に、次のようなフレーズがあります。

一般のキャパシティ

多種多様なカテゴリ

君が「そう」なら「そう」だ

「君が知りたい」

言われてもね、きっとね

キャパオーバーだね

嫌いな訳じゃなくて虚しいんだ

あぁ やなかんじだ

以上のような話を踏まえながらこの歌詞に注意を向けると、違った仕方で聞こえるのではないでしょうか。

カテゴリー抜きで「君」を知ることは、カント的な世界観の下では人間の能力の限界を超えている「キャパオーバー」なわけですから、「嫌いな訳じゃなくて虚しい」と感じられるのでしょう。

 

そしてこの曲のポイントは、他者のありのままを捉えられないことにもどかしさを感じていながら、同時にある種の希望も見出されているところだと思います。

私は私でありたい

君は君でいればいい

それでいいね

並走して触れ合う テリトリーの中で

手を繋げたならいいね

互いのありのままに触れることができない2人の関係を「平行線」に見立て、そこにもどかしさと希望を同時に見出す、上手な歌詞だと思います(そして何より曲がかっこいい)。

この解釈が唯一の正解だと言っているわけではありません。ただ、こういう解釈もあり得るかもね、もしかしたらこの曲の大事な部分を掬えているかもしれないね、という話です。

 

以下、おまけです。

・ハナムケのハナタバの歌詞の、「ワタシが見ていた世界」「アナタが見たアナタの世界」というような言い方は、カントに連なるドイツ観念論の世界観を想起させる。

・コメティックが「~である」(例えば、私は人間である、女である、日本国籍である)という「本質存在」ではなく「~がある」「~がいる」(<ありのままの>私がいる、君がいる)という「事実存在」に注目し、そこに希望を見出するならば、それはシャニマスと頻繁に結びつけられる実存主義に他ならない(このあたりの話も、木田の反哲学史から借りています)。

Bence Nanay(2018)「美的判断中心主義に反対」

 Nanay(2018), Against Aesthetic Judgements を読みました。

philarchive.org

 

 同じような話が、同著者によるAesthetics: A Very Short Introductionの方にも収録されています。

academic.oup.com

 

 タイトルを直訳すると「美的判断に反対」になりますが、そこで批判されているのは、西洋の美学(とりわけ分析美学)において美的判断が特権的な位置を占めてきたことなので、本エントリーのタイトルにある通り、「美的判断中心主義に反対」と勝手に訳しました。

 

 前半では、むしろ対象の前で展開するかけがえのない美的「経験」の方を重視すべきであり、経験の後に下されたり留保されたりする判断を気にかけすぎるべきではないと主張されます。

 後半では、そもそもなぜ(西洋)美学において美的判断が特権的な位置を占めることになったのかについて、いくつかの(美学史的な)診断が下されます。

 

 以下は私の感想です。

 美的判断が特権的な位置を占めがちなのは(西洋)美学においてのみでなく、私たちの生活実践、特にSNSにおける文字媒体ベースのコミュニケーションにおいてもそうだろうと思いました。だとしたら、判断ではなく経験を重視せよというNanayの提案は、私たちの生活実践におけるコミュニケーションのあり方を再考させるものでしょう。

 あと、途中で登場するNanayの経験談を読んで、キルケゴールの議論「新しい経験としての反復、という逆説」を思い出しました。

 

dinerennuyeux.hatenablog.com

【読書メモ】源河亨(2017)『知覚と判断の境界線―「知覚の哲学」基本と応用』

 源河亨(2017)『知覚と判断の境界線―「知覚の哲学」基本と応用』を読みました。

www.keio-up.co.jp

 

 私がとりわけ興味深く読んだのは第6章「美的性質の知覚」です。

 そこにおいて、美的性質に対する知覚は、ゲシュタルトに対する知覚と同様にとらえることができると説明されるのですが、私はこれを裏付けるような(あるいは、これに裏付けられるような?)経験をしたことがあるので、ここではその経験について書いておきます。

 

 

 突然ですが、動物のシカ、かわいいですよね。

井の頭自然文化園のシカ(撮影は私による)

 私はある経験をするまで、シカにかわいさ(美的性質)を知覚していたのですが、ある経験をしてから一定期間は、シカに全くかわいさを感じられず、それどころか気持ち悪さすら感じていました(いまは以前同様に、シカにかわいさを感じています)。

 その経験とは、YouTubeキョン(千葉県に大量発生しているらしい動物)の動画を観たことです。それがどの動画だったのかは覚えていませんが、YouTubeで探せば似たような動画を見ることができるはずです。

 その動画は、キョンの臭腺(目と目の間に2つある穴で、そこから出す臭いのする分泌物でマーキングをするらしい)が開いたり閉じたりする様子を撮影したものでした。

 私はその動画を見て、キョンにかなりの気持ち悪さを感じたのですが、そのあと、上で掲載したシカの写真(当時、私はこれをPCのデスクトップに設定していました)を見たときに、似た気持ち悪さを感じたのです。

 

 この経験は、キョンの動画を見た経験が、私が無自覚に採用する知覚モードに影響し、キョンの気持ち悪さを知覚するようなモードでシカの写真を見てしまった結果である、というふうに説明できると思います。

 今は知覚モードがもとに戻ったのか、シカのかわいさを感じることができますし、むしろキョンもシカ的な「かわいいゲシュタルト」の下で知覚しているせいか、そこまで気持ち悪さを感じません。

 

 以上、この本の説明を裏書きするような私の個人的体験談でした。

同上

 

【読書メモ】藤野寛(2014)『キルケゴール―美と倫理のはざまに立つ哲学』

藤野寛(2014)『キルケゴール―美と倫理のはざまに立つ哲学』を読みました。

www.iwanami.co.jp

 感想を述べる前に、注意点を2つ。

 キルケゴールひとりを主題にした著作を読むのはこれが初めてでした。著述の正確さや妥当性について判断することはできません。

 また私は、西洋哲学、とりわけ今回取り上げるようなカント以降の哲学については勉強を始めたばかりなので、以下の感想には誤解や混乱が含まれている可能性があります。

 

 では本題。

 この本いわく、キルケゴールは美的なあり方と倫理的(宗教的)なあり方を区別し、前者を後者から遠ざけようとする。

 いわく、倫理的(宗教的)なあり方は実存的姿勢を備えているのに対し、美的なあり方はそれを欠いている。

 いわく、キルケゴールにおいて、実存的な姿勢は「永遠の相のもとに」立つ姿勢と対置されている(ネーゲルが引用されていて驚きました)。

 以下のように(とても大雑把に)整理できるでしょう(この本ではフーコーデカルトも言及されていませんが)。この整理の妥当性を検討することは、私の今後の学習課題であります。

 

実存的なあり方:有限性(被制約性)を引き受ける。フーコー的主体?。

非実存的なあり方:有限性(被制約性)から目を背ける。デカルト的主体?。

 

 キルケゴールが美的なものを非難するのは、美的なものが観照という概念に依拠する限りにおいてであります。

 観照とは、実践的関心から離れ、イデアそれ自体に触れることですが、キルケゴールにとってそれは神のみに許された関与です。キルケゴールにしてみれば、有限な人間が取り組むべきは、そのような没関心的な境地を目指すことではない(そこに至ることは有限な人間にとっては不可能である)。人間が打ち込むべき営為は、自らの有限性(被制約性)と実践的関心を積極的に引き受けることを措いて、ほかにない、ということです。

 

 以上のように、キルケゴール観照という概念をいかがわしく思い、批判します。私はそこにとても共感します。

 ですが、観照すること(あるいはその境地を目指すこと)と、美的なあり方をすることはイコールではないと(少なくとも現代からしてみれば)考えられると思います。

 観照という営為とは関わらない仕方で、「美的である」ということができるように思われるのです。

 美的経験を観照という営為と結びつけて理解する仕方は、カント―ショーペンハウアーによる仕方でしょうが、カント的な「美の無関心性」説は、ただちに観照概念を要請するようなものなのか。ここに議論の余地があるように感じました(このあたりも私の今後の学習課題とします)。

 日常的な実践的関心から切り離された仕方で対象に関与する、というのは、美的な関与の否定的な特徴づけであって、そこから観照(本質を見極める)という積極的な営為に至るまでにはギャップがあるのではないか、と思います。

 意志や関心抜きで対象を「捉える」こと(=観照)がそもそも可能なのか、という問題もありますし(この点で私はキルケゴールに共感します)、私たちが「美的経験」と呼び、追い求めるものがそれであるか、という問題もあります(例えば、単に対象へ向けられる注意のあり方が日常のそれとは異なっており、その差分が「美的」な印象を与える、という説明もあり得そうです)。

 

 そして、キルケゴールは(上述のように)美的と倫理的(宗教的)を峻別するのですが、実質的に倫理的なものから除外されているのは、観照的な態度であるといった方がいいでしょう(もっとも、キルケゴールにおいては美的=観照的なのかもしれませんが)。

 むしろ生活における美的経験は、私たちが実存的であること(被制約的であること)を私たちに実感させるのに一役買っているように私は感じます。

 普段は有用性の観点(すなわち実存的観点、ということでしょう)からしか眺めることのない街並みが、あるとき突然、美的なものとして立ち現れてくる。そのようなときに私たちが実感するのは、私たちが普段、目の前にあるものにいかに限られた注意しか向けていないか、私たちが普段どれだけ実践的な(被制約的な)あり方をしているか、という事実です。

 確かにここには、キルケゴールが問題視したものがあります。つまり、そのような美的経験をしているとき、私たちは実存的なあり方をしていない。

 ですが、(おそらくキルケゴールとは反対に)これはたいした問題ではないように私は感じます。人間は有限であるからこそ、常に美的な(実践的関心から離れた)あり方をすることはできない(この点はキルケゴールに同意します)。

 これは今後、考えていきたいことなのですが、実存的なあり方とは、むしろ美的経験を可能にするための土台であるように思われるのです。常に無関心的な仕方で対象に関与している主体は、対象を「新鮮に」知覚するということが無いのではないか。私たちが普段、実存(実践的関心)にとらわれているからこそ、そこからふと離れることができたタイミングで、対象の知覚像が「新鮮に」感じられる。現実の事態は、このようになっているのではないでしょうか。

 だとしたら、美的なものに実存性(有限性)のリマインダーとして働くことも期待しうるでしょう。

 キルケゴールとは反対に、美的な生き方(自らの関心とは離れたところに、美が存在することを前提とする生き方)は、美的なものに出会うたび、自らの普段の有限性を繰り返し自覚する生き方であり、それこそが倫理的な生き方であると私には思われるのです。

 関連文献を読み進めたいと思います。

 

 

 以下、そのほか考えたことをおまけ的に載せておきます。

 以上で検討したようなästhetischなものに対する議論(第四章)に並んで面白かったのが、第五章「新たな経験としての反復、という逆説」です。

 面白かったと感じたのは、私が日常的に抱えていたモヤモヤ(深刻ではない)を説明してくれる語彙をこの章が与えてくれたからだと思います。

 例えばある(娯楽)ジャンルの「王道的な」作品について、そのジャンルに初めて触れる人(A)にとっては面白く、そのジャンルになじみがある人(B)にとっては退屈である、という事態があります。

 Bいわく、同様なパターンの作品はこれまでにいくつもあり、その作品は陳腐でつまらなかった、と。

 これは、ある出来事は、歴史的には以前あったものの反復であるが、Aにとっては文字通り「新たな」経験であり、いわば事件であるという第五章の議論がぴったり当てはまる事例であると感じました。

 また、XなどのSNSでは過去にすでになされた議論が幾度となく繰り返されている様子を確認することができますが、これも、議論をしている当人たちにとってはまさにその「反復」が「最前線」である、という事態として考えられると思います。

 (第五章のこのような解釈は至極、世俗的なものでしょう。この逆説がキルケゴールの思索においてどのような価値を持っているかを、私はまだ理解しかねています......。)

 

 ともあれ、今後はもっとキルケゴールと仲良くしていこうと思いました。

 

【ネタバレ感想】『大室家 dear sisters』を観ました

記念すべき初エントリー。

タイトルの通り、『大室家 dear sisters』を劇場で観てきました。

ohmuroke.com

 

原作は読んだことがないです。

アニメ版のゆるゆりだけ、ずっと昔に観たことがあります。

以下、がっつりネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

 

 

面白かったです。

最後の場面が感動的でした。

上述の通り、原作を読んだことがないので自分が「正しい評価」をする立場にあるとは思っていません。作品評価(批評)一般に関する諸問題は別のエントリーで改めて検討します。

最後の場面を感動的なものにしている要素に1つ気がついたので、それをメモしておきます。

劇中では三姉妹のほのぼのとした日常が描かれ、ところどころで感動的なムードに1瞬だけなるのですが、だいたいそのあとに櫻子がふざけるのでコメディとして回収され続けます。

(例えば、風邪をひいた花子がお粥を作ってくれた櫻子にお礼を言うシーン)

 

これが最後の場面とのコントラストを作り出しています。

最後の場面では、大室三姉妹がハグしあっているところを向日葵に目撃されてしまいます。撫子と花子はそれに気づき驚くのですが、櫻子は動揺することなく笑顔でハグを続けるのです。

劇のそれまでの流れからして、最後の場面でも櫻子がふざけて、お話がコメディとして回収される、との予測が自然に成立するのですが、最後の場面ではこれが裏切られます。

このコントラストによって、櫻子のまっすぐな姉妹愛が感動的に演出されていると思います。

 

撫子や花子が姉妹のことを気にかけている様子は正面から描かれていて、これはこれで良さがあるのですが、これとは違った仕方で櫻子の姉妹愛が描かれていて、これがこの作品がもたらす独特の満足感に貢献していると思いました。

 

 

原作も読んでみようかな。