Nanay(2018), Against Aesthetic Judgements を読みました。
同じような話が、同著者によるAesthetics: A Very Short Introductionの方にも収録されています。
タイトルを直訳すると「美的判断に反対」になりますが、そこで批判されているのは、西洋の美学(とりわけ分析美学)において美的判断が特権的な位置を占めてきたことなので、本エントリーのタイトルにある通り、「美的判断中心主義に反対」と勝手に訳しました。
前半では、むしろ対象の前で展開するかけがえのない美的「経験」の方を重視すべきであり、経験の後に下されたり留保されたりする判断を気にかけすぎるべきではないと主張されます。
後半では、そもそもなぜ(西洋)美学において美的判断が特権的な位置を占めることになったのかについて、いくつかの(美学史的な)診断が下されます。
以下は私の感想です。
美的判断が特権的な位置を占めがちなのは(西洋)美学においてのみでなく、私たちの生活実践、特にSNSにおける文字媒体ベースのコミュニケーションにおいてもそうだろうと思いました。だとしたら、判断ではなく経験を重視せよというNanayの提案は、私たちの生活実践におけるコミュニケーションのあり方を再考させるものでしょう。
あと、途中で登場するNanayの経験談を読んで、キルケゴールの議論「新しい経験としての反復、という逆説」を思い出しました。