Dîner Ennuyeux

aesthetics, philosophy of art, criticism

【読書メモ】藤野寛(2014)『キルケゴール―美と倫理のはざまに立つ哲学』

藤野寛(2014)『キルケゴール―美と倫理のはざまに立つ哲学』を読みました。

www.iwanami.co.jp

 感想を述べる前に、注意点を2つ。

 キルケゴールひとりを主題にした著作を読むのはこれが初めてでした。著述の正確さや妥当性について判断することはできません。

 また私は、西洋哲学、とりわけ今回取り上げるようなカント以降の哲学については勉強を始めたばかりなので、以下の感想には誤解や混乱が含まれている可能性があります。

 

 では本題。

 この本いわく、キルケゴールは美的なあり方と倫理的(宗教的)なあり方を区別し、前者を後者から遠ざけようとする。

 いわく、倫理的(宗教的)なあり方は実存的姿勢を備えているのに対し、美的なあり方はそれを欠いている。

 いわく、キルケゴールにおいて、実存的な姿勢は「永遠の相のもとに」立つ姿勢と対置されている(ネーゲルが引用されていて驚きました)。

 以下のように(とても大雑把に)整理できるでしょう(この本ではフーコーデカルトも言及されていませんが)。この整理の妥当性を検討することは、私の今後の学習課題であります。

 

実存的なあり方:有限性(被制約性)を引き受ける。フーコー的主体?。

非実存的なあり方:有限性(被制約性)から目を背ける。デカルト的主体?。

 

 キルケゴールが美的なものを非難するのは、美的なものが観照という概念に依拠する限りにおいてであります。

 観照とは、実践的関心から離れ、イデアそれ自体に触れることですが、キルケゴールにとってそれは神のみに許された関与です。キルケゴールにしてみれば、有限な人間が取り組むべきは、そのような没関心的な境地を目指すことではない(そこに至ることは有限な人間にとっては不可能である)。人間が打ち込むべき営為は、自らの有限性(被制約性)と実践的関心を積極的に引き受けることを措いて、ほかにない、ということです。

 

 以上のように、キルケゴール観照という概念をいかがわしく思い、批判します。私はそこにとても共感します。

 ですが、観照すること(あるいはその境地を目指すこと)と、美的なあり方をすることはイコールではないと(少なくとも現代からしてみれば)考えられると思います。

 観照という営為とは関わらない仕方で、「美的である」ということができるように思われるのです。

 美的経験を観照という営為と結びつけて理解する仕方は、カント―ショーペンハウアーによる仕方でしょうが、カント的な「美の無関心性」説は、ただちに観照概念を要請するようなものなのか。ここに議論の余地があるように感じました(このあたりも私の今後の学習課題とします)。

 日常的な実践的関心から切り離された仕方で対象に関与する、というのは、美的な関与の否定的な特徴づけであって、そこから観照(本質を見極める)という積極的な営為に至るまでにはギャップがあるのではないか、と思います。

 意志や関心抜きで対象を「捉える」こと(=観照)がそもそも可能なのか、という問題もありますし(この点で私はキルケゴールに共感します)、私たちが「美的経験」と呼び、追い求めるものがそれであるか、という問題もあります(例えば、単に対象へ向けられる注意のあり方が日常のそれとは異なっており、その差分が「美的」な印象を与える、という説明もあり得そうです)。

 

 そして、キルケゴールは(上述のように)美的と倫理的(宗教的)を峻別するのですが、実質的に倫理的なものから除外されているのは、観照的な態度であるといった方がいいでしょう(もっとも、キルケゴールにおいては美的=観照的なのかもしれませんが)。

 むしろ生活における美的経験は、私たちが実存的であること(被制約的であること)を私たちに実感させるのに一役買っているように私は感じます。

 普段は有用性の観点(すなわち実存的観点、ということでしょう)からしか眺めることのない街並みが、あるとき突然、美的なものとして立ち現れてくる。そのようなときに私たちが実感するのは、私たちが普段、目の前にあるものにいかに限られた注意しか向けていないか、私たちが普段どれだけ実践的な(被制約的な)あり方をしているか、という事実です。

 確かにここには、キルケゴールが問題視したものがあります。つまり、そのような美的経験をしているとき、私たちは実存的なあり方をしていない。

 ですが、(おそらくキルケゴールとは反対に)これはたいした問題ではないように私は感じます。人間は有限であるからこそ、常に美的な(実践的関心から離れた)あり方をすることはできない(この点はキルケゴールに同意します)。

 これは今後、考えていきたいことなのですが、実存的なあり方とは、むしろ美的経験を可能にするための土台であるように思われるのです。常に無関心的な仕方で対象に関与している主体は、対象を「新鮮に」知覚するということが無いのではないか。私たちが普段、実存(実践的関心)にとらわれているからこそ、そこからふと離れることができたタイミングで、対象の知覚像が「新鮮に」感じられる。現実の事態は、このようになっているのではないでしょうか。

 だとしたら、美的なものに実存性(有限性)のリマインダーとして働くことも期待しうるでしょう。

 キルケゴールとは反対に、美的な生き方(自らの関心とは離れたところに、美が存在することを前提とする生き方)は、美的なものに出会うたび、自らの普段の有限性を繰り返し自覚する生き方であり、それこそが倫理的な生き方であると私には思われるのです。

 関連文献を読み進めたいと思います。

 

 

 以下、そのほか考えたことをおまけ的に載せておきます。

 以上で検討したようなästhetischなものに対する議論(第四章)に並んで面白かったのが、第五章「新たな経験としての反復、という逆説」です。

 面白かったと感じたのは、私が日常的に抱えていたモヤモヤ(深刻ではない)を説明してくれる語彙をこの章が与えてくれたからだと思います。

 例えばある(娯楽)ジャンルの「王道的な」作品について、そのジャンルに初めて触れる人(A)にとっては面白く、そのジャンルになじみがある人(B)にとっては退屈である、という事態があります。

 Bいわく、同様なパターンの作品はこれまでにいくつもあり、その作品は陳腐でつまらなかった、と。

 これは、ある出来事は、歴史的には以前あったものの反復であるが、Aにとっては文字通り「新たな」経験であり、いわば事件であるという第五章の議論がぴったり当てはまる事例であると感じました。

 また、XなどのSNSでは過去にすでになされた議論が幾度となく繰り返されている様子を確認することができますが、これも、議論をしている当人たちにとってはまさにその「反復」が「最前線」である、という事態として考えられると思います。

 (第五章のこのような解釈は至極、世俗的なものでしょう。この逆説がキルケゴールの思索においてどのような価値を持っているかを、私はまだ理解しかねています......。)

 

 ともあれ、今後はもっとキルケゴールと仲良くしていこうと思いました。