源河亨(2017)『知覚と判断の境界線―「知覚の哲学」基本と応用』を読みました。
私がとりわけ興味深く読んだのは第6章「美的性質の知覚」です。
そこにおいて、美的性質に対する知覚は、ゲシュタルトに対する知覚と同様にとらえることができると説明されるのですが、私はこれを裏付けるような(あるいは、これに裏付けられるような?)経験をしたことがあるので、ここではその経験について書いておきます。
突然ですが、動物のシカ、かわいいですよね。
私はある経験をするまで、シカにかわいさ(美的性質)を知覚していたのですが、ある経験をしてから一定期間は、シカに全くかわいさを感じられず、それどころか気持ち悪さすら感じていました(いまは以前同様に、シカにかわいさを感じています)。
その経験とは、YouTubeでキョン(千葉県に大量発生しているらしい動物)の動画を観たことです。それがどの動画だったのかは覚えていませんが、YouTubeで探せば似たような動画を見ることができるはずです。
その動画は、キョンの臭腺(目と目の間に2つある穴で、そこから出す臭いのする分泌物でマーキングをするらしい)が開いたり閉じたりする様子を撮影したものでした。
私はその動画を見て、キョンにかなりの気持ち悪さを感じたのですが、そのあと、上で掲載したシカの写真(当時、私はこれをPCのデスクトップに設定していました)を見たときに、似た気持ち悪さを感じたのです。
この経験は、キョンの動画を見た経験が、私が無自覚に採用する知覚モードに影響し、キョンの気持ち悪さを知覚するようなモードでシカの写真を見てしまった結果である、というふうに説明できると思います。
今は知覚モードがもとに戻ったのか、シカのかわいさを感じることができますし、むしろキョンもシカ的な「かわいいゲシュタルト」の下で知覚しているせいか、そこまで気持ち悪さを感じません。
以上、この本の説明を裏書きするような私の個人的体験談でした。